個人語を持とう

経済学部

米田 清

 

自分専用の言語を持つと生活が楽しくなるので、お勧めします。

ここで言語とよぶのは自然言語はもちろん、計算機言語、数式、図式、標識なども含む、記号学で扱いそうなもの全般です。言語には

  • 通信: 考えを他者と伝えあう
  • 処理: 自分が考える

という2つの側面があります。 そのように通信と処理の両方に使う普通の言語を社会語とよぶことにします。 それに対して個人語は処理専用の言語で、他人の理解を期待しません。

社会語は社会的な約束事のかたまりです。 たとえば敬語はしくじると人に相手にされないので、やっかいながらも手間をかけます。 一方、個人語で敬語を省いても、誰も文句は言いません。 このように言語を自分専用に改造する余地はいくらでもあります。 個人語なら勝手放題ができるので、つきつめて工夫しようという提案です。 用途を絞るのは鋭い道具を作る常道です。

口先と腹の中とが食い違う程度の個人語は、無意識には誰でも持っています。 社会語のつもりで個人語を話すと通じません。 それをやってしまう傾向も誰にでもあります。 提案の要点は「意識的に」社会語とは異なる個人語を持つことです。

意識して個人語を整備し始めたきっかけは、学生のときアルバイトの効率を上げたくて、当時はまだ実用技能だった英語の速記を自習したことでした。 良く練られた体系ながら、筆記が前提でデジタル処理を想定していない点が不便でした。 そこを改良するうちに、自分しか読めない個人文字ができました。 この文の原稿も図式的な個人語を個人文字で書き、骨ができてから日本語にしました。

就職した会社では、コンピュータ言語も個人語を持ちました。 この場合、通信相手は機械と人間の両方です。 目的はプログラムをさまざまな機械環境で動かすことだったので、機械との通信は確保し、人間との通信を諦めました。 要するに自分専用のスクリプト言語で、他人にはまず読めません。 使ってみるとあまりにも快適で、本来の目的はもう、どうでも良くなりました。 どう快適なのかを説明するのは、たで食う虫が、たでの旨さを力説するのと変わりません。 自分で自分に合わせるのが個人語です。

ところで、ある言語で考えられることがらは当然、その言語で表現できる範囲に限ります。 したがって言語は思考を、ひいては行動を規定します。 よって言語の統制は思想の統制です。 社会語で「不適切」な表現を改めるのは、誰かが「有害」な概念を社会から抹殺したいからです。

それがいやでも、社会語を使う限り、統制は避けようがありません。 規格化が通信を可能にするので、社会的な統制を拒否しては通信が成り立ちませんから。 そのため社会語は歴史的にできた、現代に生きる個人にとってはわけのわからない不便な規則で、がんじがらめです。

つまり、社会語の本命は通信で、処理は犠牲になっています。 処理に特化した個人語を作っても、不満はどうせ残ります。 しかし、自分はなぜそう決めざるを得なかったのかを知っているので、納得できるのが救いです。

社会には精神を病んだ人が、いたる所にいます。 その一因は、矛盾のかたまりである社会語を用いて考えることにある、という説です。 通信は他者との義理を、処理は自己の人情を反映し、義理と人情の板挟みという構図です。 矛盾が病の原因なのは、体も精神も同じです。 ここで、処理は個人語、通信は社会語、と割切れば矛盾が減ります。

その場合、伝達には個人語から社会語への翻訳が必須になり、めんどうで応答を遅くします。 これは反面、意識的な個人語は暗号として使えるということでもあります。 解読は、その収穫が労力に見合わないように見せれば、わざわざやる物好きはいません。

電波で思考を盗聴されるのを防ぐため、頭にアルミフォイルを巻く人がいます。 そこまで飛んでしまう前に、意識して個人語を持ちましょう。 自由が、目立つことなく手に入ります。