「できる」ことの2重構造

人文学部 古賀 恵介

 昨年7月のコラムで、「わかる」ということには2つのレベル(受動的理解と能動的理解)があるというお話をしたのだが、その最後のところで、

私の専門である英語(に限らず外国語一般)の習得の場合には、このような手続き的理解、つまり理屈での理解だけでは(ペーパーテストの問題を解くだけなら何とかなるが)実践的にはあまり役に立たない。憶えた知識を技(途中の過程を意識化しないで発動できる動き)として駆使することができるようにならなければならないからである。
と述べた。今回はその点について説明してみたいと思う。

 問題は、知識と技能の違いである。この違いは、学校で教わる科目のうち、数学と英語で対比しながら考えてみるとわかりやすいであろう。
 単純な計算問題であれ、文章題であれ、数学の場合、問題を理屈を駆使しながら解いていくことには変わりがない。つまり、持っている知識を手続き的に用いることで問題が解けるし、そういうレベルに到達できれば、数学の能力としては十分ということになるであろう。ところが、英語はそうではない。文を文法に従って解析してその意味を理解できる、とか、文法に従って単語を並べて文を組み立てることができる、というだけでは不十分なのである。

 何が不十分なのか?

 これでは実際のコミュニケーションの場面では、全然とは言わないまでも、あまり役に立たないのである。何故か?    遅いのである    我々がふつうに言葉をしゃべっているときには、文の文法構造を(意識上で)いちいち解析しながら理解したり表現したりしているわけではない。音声言語は、言われた次の瞬間には消え去ってしまうわけだから、音が聞こえてくると同時にリアルタイムで理解できなければならないし、また、伝えようと思う内容を思い浮かべてから、長い時間をかけて文を組み立てていたのでは、会話のリズムを維持することができない。つまり、数学の問題を解くときのように、「う~ん」とうなりながら考え込む余裕はないのである。場合にもよるけれども、基本的には、瞬時に文を解析したり組み立てたりする能力が必要なのである。

 これが、ここで言う知識と技能の違いである。手持ちの知識を意識上であれこれ駆使して考えながら答えを出す、ということも確かに一つの能力ではある。が、外国語に習熟するということは、それとは違うレベルの能力を必要とするのである。上の引用にある「憶えた知識を技(途中の過程を意識化しないで発動できる動き)として駆使することができる」ということである。つまり、単語や文法が技能化していなければならないのである。単語を聞いた瞬間に、その意味を頭の中でイメージ化できる。文を聞いた瞬間に、それが表す出来事をイメージとして頭の中に描き出せる。表現する場合は、その逆のことが瞬時にできる。そういうふうでなければ、実際のコミュニケーションに支障を来してしまう。

 と、ここまで読んできた方々は、何となく思ったはずである。「なんだ、スポーツと同じじゃないか」と。その通り。スポーツや楽器演奏も、このような技能化された運動で成り立っている活動である。両分野とも、アタマで憶えるだけではダメで、カラダで憶えなければならない。ただ、言語と違うのは、スポーツや楽器演奏の場合、単語を覚えたり文法を理屈で理解したりするような知識的な部分があまりない、ということだけである。

 外国語習得の場合、我々は学校の英語の時間にそれを“お勉強”として、つまり知識習得としてのみやってしまう。その結果、英語の知識が知識のままに留まって技能化せず、実践場面でうまく使えなくて、「日本人は、中学・高校と6年間も英語の勉強をしているのに、ちっとも英語がしゃべれない」という、例の、耳にタコができそうなくらいにお馴染みの批判を浴びてしまうことになるのである。

 かと思うと、今度はその反動からか、知識習得の部分を全部否定して、「英語の授業は全部英語で」とか、「英語は絶対勉強するな」とか、「1日5分このテープを聞き流すだけで・・・」なんていうふうに、逆の極端の方に走ってしまう人たちも出てくることになる。
 もうそろそろ、こういう両極端はやめにすべきであろう。外国語の効率的な習得に当たっては、知識の習得(つまり、“お勉強”の部分)はどうしても必要である。が、しかし、それだけでは十分ではない。憶えた知識を技能化しながら身につけていく過程も必要なのである。
 では、具体的にどうすればいいのか?

 それは、また別の機会に。ヒントは、スポーツや楽器演奏との類似性である。
※因みに、コンピューターの記憶には、ここでいう知識と技能の違いはない。コンピューターは、データと手続きさえ憶えさせれば、瞬時に反応してくれる。が、人間はそうはいかないのである。