「わかる」ことの二重構造

人文学部 古賀 恵介

 昨年7月のコラムに引き続き、機械の情報伝達と人間の情報伝達の質的相違について考えてみたい。

 昨年のコラムでも書いたが、機械においては、伝達される情報は、途中で物理的な欠落が生じない限り、発信側から送信側へ100%伝えられる。電話、FAX、Eメール、Webページなど、どのメディアにおいても、伝達方法の違いはあれ、機械がまともに働いていれば、情報は受信側へ完全に伝わる。

 ところが、人間対人間、つまり、一人の人間のアタマから別の人間のアタマへの情報伝達では必ずしもそうではない。言語を用いた場合の特殊性については昨年のコラムで取り上げたが、今回は、受け手の側の認識の能動性という問題を取り上げてみたい。これは、簡単に言えば、人から教えられたことが「わかる」ということには、大きく分けて受動的理解能動的理解という二つの段階があり、「本当にわかった」ということが言えるのは、後者の能動的理解に達したときである、ということである。

 一番わかりやすい例としては、ある場所へ行く道順を理解するときのことを挙げることができる。誰かに車に乗せてもらって、まったく初めての土地にある目的地まで連れて行ってもらうと、その時は何となくその道順はわかったような気がする。で、別の機会に「大丈夫だろう」などと思いながら自分だけで行ってみると、意外に記憶がうろ覚えで、あれこれ迷ってしまう。こんな経験は多くの人がしているであろう。人に連れて行ってもらうだけだと、理解が受動的なままに留まってしまうが、自力で正しい道順を辿るためには、それでは不十分なのである。

 もっと深刻な例は、学校で教わる算数・数学、特に文章題である。学校時代、算数や数学が好きだったとか得意だったという人は、少なくとも世の中全体からみれば少数派であろう。その一方で、好き嫌いは別にして、計算の仕方がまったくわからなかったという人も少数派であろうと思う。多くの人たちは、文章題が解けずに苦労して、数学が嫌いになったはずである。そういう人たちであっても、授業中に先生が問題文の意味を噛み砕いて説明しながら、計算式や方程式をたてて問題を解いてくれた時には、「ふんふん、なるほど」と思ったはずである。ところが、いざ、自分ひとりで問題を解いてみようとすると、何をどうしていいのかわからず途方に暮れてしまう。こんな経験の積み重ねが、数学嫌いを作る最大の要因になっているのではなかろうかと思うが、いかがだろうか。

 実は、これは算数や数学に限ったことではなく、物理・化学の計算問題や国語・英語など、問題を手続き的に解いていかねばならない科目には多かれ少なかれ当てはまることである。教えられた情報を単に憶えるのではなく、問題の解き方の正しい道筋を見つけ出し、それを辿って行って答えに到達するという能力が要求されるからである。

 このような「解き方」というのは、授業でそのやり方を先生に教えてもらうだけでは十分には身につかない。その時はわかったような気がしても、これは目的地に車で連れて行ってもらっているようなものであり、その途中の道筋や風景を受動的に受け止めているだけだからである。ここは是非とも、自分で、自分の力で、解いてみることが大切であり、また、それを少しずつパターンを変えながら繰り返すことが大切なのである。そうやって能動的な認識を働かせることで、途中の様々な“風景”や“目印”がしっかりとアタマに刻みこまれ、解答への正しい道筋を辿っていくことができるようになるのである。この種の科目が予習・復習をしないとなかなか身につかないのは、まさにこの故である。

 因みに、私の専門である英語(に限らず外国語一般)の習得の場合には、このような手続き的理解、つまり理屈での理解だけでは(ペーパーテストの問題を解くだけなら何とかなるが)実践的にはあまり役に立たない。憶えた知識を技(途中の過程を意識化しないで発動できる動き)として駆使することができるようにならなければならないからである。が、そのお話はまた別の機会にしたいと思う。