楽しかりし年月

工学部 鶴岡 知昭

 1992年の10月になったばかりの博多港に愛車とともに到着してから早16年の歳月が過ぎ去ってしまった。この場をお借りして思い出話をしておこう。つくづく思うのは人生の転機は予期せぬ形でやってくるものだと。1990年の11月であったと思うが、Comdexと呼ばれるコンピュータショーがラスベガスで開催されていた折にたまたま福岡大学の首藤先生他10数人と同行することになり、どうもそれが縁で、福岡大学でセンターのシステムを更新する時期が迫っているので手伝わないかとお声をかけて戴いたようである。お話をうかがうと、病院のシステムも再構築が始まっているということで、これは大変なことになったなと思った。幸いというか、これまで筑波大学病院や琉球大学病院のシステム構築を経験しているので、無責任な話だが、何とかなりそうな気がした。ご丁寧に副学長まで直接お越しいただいて福岡大学への赴任のお声がけをいただくことになり、これぞ「三顧の礼」ではないがお断りするわけにはいかないことになった。赴任を前にしてしばしば筑紫病院のシステムのご相談に応じたりなどしているうちに心はすっかり福岡大学のとりこになってしまった。

   赴任後早速筑紫病院のシステム構築の手伝いやら研究教育用のシステム構築などの準備にとりかかったが、そもそも学内や筑紫病院、九州大学など学外とを結ぶ高速通信回線があるわけでなく、予算措置すらなされていなかった。それに甘んじるわけにはいかないので電子工学科の吉村先生と相談の上、九州大学大型計算機センターの間に256Kbpsの回線を敷設することにした、この当時NTTのデジタル回線は256Kbps以上は光ファイバーを使用していた。後に更に高速化するための布石としてこの速度を選択した。

   その後の一年間は毎週幾日かは学長室や副学長室に通いつめることになる。一方学内に対しては次期システムのイメージをもっていただくための情宣活動が必要と感じ、絵や図を満載した小冊子を1000部ばかり作成して配布することにした。このことが効果があったのか多くの先生方は当然のこととして次期システムはネットワーク環境が整備された最新のものになるというイメージができつつあった。しかし、相変わらず予算が確定しているわけではない。とうとう痺れを切らして、副学長に向かって「先生、ネットワーク整備にとりあえず1億使わせてください。」と申し上げたところ何もおっしゃらなかったようにも思えるが、間もなく施設部を交えてLANの構築作業が進み始めた。正直な話、5億程度の予算が欲しかったのであるが、無理なら1億で始めよう。回線の敷設等で消えてしまう額であったが止むを得ない。通信機材を大型計算機システム一式に紛れ込ませてしまおう、という作戦であった。1993年の秋のことである。

   話は1993年春に戻るが、センターのシステムは富士通の大型計算機を学内各所と同軸ケーブルで接続した、いわゆるスター型と呼ばれる中央集中型の構成で、F9450やF2940などの端末を接続しIBMのMVSをコピーした疑いで日米間で大騒ぎになったMSPというOSを使っていた。FORTRANというプログラミング言語でプログラム作成を行うのが通常の姿である。事務処理はCOBOL言語などを使用していた。このころの計算機は起動直後にオペレータが時刻を正確にコンソールから設定する必要がある。あるとき、気がついてみると24時間、つまり一日間違えて設定した。これは大変なことで、銀行などでは担当者の首が飛びそうなことである。そこで電子工学科の吉村先生と郵政省の標準電波を使った時刻同期システムを作ろうと短波受信機を購入してあれこれと実験を試みるがとてもではないが実用になるような精度がでない。そこで赴任前からいたずらしていたGPS受信機から時刻情報を取り出そうと米国から受信機の購入を手配した。今では1万円もしない受信機がプロ用とはいえ170万円もしたが、これ以外に手段はない。さすがに輸入となると何かと時間がかかり、ようやく秋になって入手できた。米国に出かける予定があった3週間前のことである。珍しい機器が入手できたことでうきうきした気分でソフトウェアの開発に着手した。土日もなく朝から晩までプログラムの試行錯誤が続いた。ようやくどうにかUNIXマシンでの時刻が数マイクロ秒の精度で同期するようになった。これが国内初のNTPによるインターネットでの時刻サービスの開始である。今のパソコンやルーターの時刻を自分で設定するまでもなく秒単位で正確に動いていることを不思議に思う学生は少ないと思うが、1993年の10月のことであった。その後、折を見て大型計算機用のソフトウェアを作成して、もはや手動による不確実な時刻設定は不要となった。

 さて、次期システムの構築にはLANによるネットワーク環境は欠かせない。ここに問題があった。理工系の教員には研究予算の額からして校費による整備も可能である。ところが文科系の教員は予算が少なく、多くの教員が私費でパソコンを購入して、それを大学へ持ち込んでいた。何としても文科系の先生方にもネットワーク環境を満喫して欲しいとの首藤センター長の熱意が伝わってくる。何とか手を考えようと校費負担によるパソコン用インターフェースカード等の配布を企てた。同じころA棟などの新棟の建築計画の進行していた。学長室ではセンターの予算の話はあまり聞いていただいたようには思えないが、テーブルに図面を広げては新棟の話ばかりを聞かされるのには少々閉口したが、新しい話には興味津々の身としては楽しいひと時であった。この際を利用してA棟のパソコン教室を整備してもらおうと折を見てはその話を持ち出した。一方各学部には1教室開けてもらえればパソコン教室が整備できるのでお願いをするが、余裕のない学部も多く理想通りにはいかなかった。とはいえ短時間に全国でも先駆的なシステムを構築できたのには学内の多くの方々の前向きな姿勢のおかげであるのはここに記しておかなければならない。図書館システムや病院のオーダーリングシステムの構築には触れることができなかった。

 

   当時の首藤センター長、センター職員をはじめとして学長、副学長、図書館長および職員、病院長をはじめとする職員、日常の相談に乗っていただいた吉村先生などには感謝の念でいっぱいである。最後にFUTUREについてひとこと。当初は3文字がいいとしてFUN(Fukuoka University Network)を考えていたのであるが、どうも軽すぎるという思いから半年ばかり悩んだあげくFukuoka University Telecommunication Utilities for Research and Education を命名することにした。首藤研究室でお茶をいただきながら決断した。

 最後に、志に満ちた同僚に恵まれたことこそ、すばらしい思い出の源泉であったことを記して筆を置くことにする。